書籍名 | 地球温暖化の現場から |
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見出し | 1章 アラスカ・シシュマレフで |
アメリカ・アラスカ州西岸スアード半島の沖八キロにあるサリチェフ島に、シシュマレフという村がある。サリチェフは、東西が四〇〇メートルほど、南北はおよそ四キロの小島で、島の集落といえばシシュマレフだけだ。北はチュクチ海で、付近一帯はベーリング陸橋国立保護区に指定されている。おそらく、アメリカで最も観光客の少ない国立公園の一つに違いない。最後の氷河期のころ、海抜の水位は現在と比べて九〇メートルほど下がっていたと思われ、一六〇〇キロにもわたって陸地が露出していたと推定される。氷河期のあと一万年あまりも温暖な気候が続いているが、まだ水面上に陸地が点在している。
シシュマレフ(人口=五九一人)は、イヌイットのイヌピアック族の集落で、季節的に移動するための人口変動はあるものの、数世紀にわたって住み続けてきた。アラスカ先住民の多くの村と同じく、ここでも太古の生活と近代的な様式が奇妙に入り混じっている。たいていの人びとは、主としてヒゲアザラシの狩猟に依存する耐乏生活を続けているが、まれにセイウチ、ムース(オオヘラジカ)、ウサギ、渡り鳥などを仕留めて食用にすることもある。
私が訪れたのは四月で、雪解けが始まり、アザラシ狩りのシーズンに入ったころだった(私は歩き回っているうちに、前年に雪のなかに蓄えていた獲物が露出し、あやうくつまずいて転びそうになった)。村の移住計画を立案しているトニー・ウェイオウアナが、自宅での昼食に招いてくれた。居間には大画面のテレビが置いてあって、団体加入でだれもが安い料金で、番組づくりにも参加できるパブリック・アクセス局で、ロック・サウンドトラックの番組を流していた。「こちらにお住まいのお年寄りの方がた、お誕生日おめでとうございます」というテロップが出て、名前が繰り返し流されていた。
シシュマレフの伝統的なアザラシ狩りの手法は、海氷の上をイヌぞりで走るもので、最近はスノーモビルが使われる。獲物を持ち帰ると、女性たちが皮を剥いで肉を保存する。その作業が、何週間も続く。一九九〇年代のはじめごろ、狩人たちは氷の状態に変化が出始めていることに気づいた(イヌイットがさまざまな氷の状態を表すことばを何百も持っているというのは誇張で、イヌピアック族が区別するのは、「シクリアック(若い氷=表面は平ら)」、「サッリ(積パックアイス氷=広大な氷丘)」、「トゥバック(内陸氷)=ランドロック・アイス」などごく少数に限られる。氷結の始まりは秋が深まるまで遅れるようになったし、解け始めるのは春も浅いうちに早まった。かつては、氷上を三〇キロあまり進むことができた。� ��がいまでは、アザラシが近づくころには氷が薄くなって、その半分の距離までしか行けない。ウェイオウアナは、「イヌがびちゃびちゃ(*1)」、という表現を何回も使った。
「そうなると、身の毛もよだって、目はまんまる、まばたきもできなくなります」
スノーモビルなどとても危険で使えず、人びとはボートに切り替えた。
海氷の変化は、すぐにほかの問題点を生んだ。シシュマレフ村は、最高地点でも海抜わずか六・六メートルしかない。住宅はほぼアメリカ政府が建てた小さい箱型の家で、それほど頑丈そうには見えない。チュクチ海が早い時期に凍結したころには、氷が重なり合って村を守ってくれた。水泳プールにビニールシートをかぶせておけば、風が吹いても波立たないのと同じ原理だ。だが氷結する時期が遅れると、嵐の大波が襲った場合シシュマレフは大きな被害をこうむる。一九九七年一〇月の嵐は、村の北端を幅四〇メートル近くにわたって削り取った。何軒かの家が倒壊し、十数軒が別の場所に家を建て直さざるを得なかった。
二〇〇一年一〇月にも嵐が来襲し、村には高さ七・五メートルの波が押し寄せた。二〇〇二年の夏、シシュマレフの住民たちから動議が出され、投票の結果、一六一票対二〇票で村全体が本土に移住することを決めた。アメリカ陸軍工兵隊は、二〇〇四年にやっと適地を見つけた。候補地はいくつかあったが、いずれもサリチェフ島と負けず劣らずの辺地で、近隣の町や集落までの道路もないところだった。全員が引っ越すまでに、アメリカ政府が負担する費用は一億八〇〇〇万ドルと見積もられている。
シシュマレフで私が話をした住民たちは、この移住に対して賛否まちまちの感想を語った。この小島を離れると海とのつながりが絶たれてしまい、生き甲斐がなくなってしまうと話していた。ある女性は、「寂しくなります」と述懐した。しかし生活が便利になると思われる面もあるので、期待に胸を膨らませている者もいる。シシュマレフには、上水道もないからだ。しかしだれもが感じたのは、これまでも生活環境はひどかったが、それがさらに悪化するに違いあるまい、という点だった。
六五歳になるモリス・キユテラックは、これまでの生涯をほぼシシュマレフで過ごしてきた。彼が語ってくれたところによると、彼の姓キユテラックは、「木のスプーンもない」という意味なのだそうだ。私が彼と出会ったのは、私が教会の地下室でたむろしていたときのことだった。ここに、「シシュマレフ侵食と移住連合」の事務所があったからだ。キユテラックは、次のように語った。
「私がはじめて地球温暖化のことを日本人から聞いたときは、とても信じられませんでした。でも、優秀な科学者がいるんですね。だんだん、現実の問題になってきていますから」
全米科学アカデミーは、一九七九年に地球温暖化の研究に取り組み始めた。その当時、気象のモデル化は、まだ端緒に付いたばかりだった。その分野に深く関わって、大気中の二酸化炭素の濃度が上昇している影響について研究していたのは、アメリカ気象大気庁の真鍋淑郎と、NASA(アメリカ航空宇宙局)ゴダード研究所のジェームズ・ハンセンくらいだった。だがそれらの報告に警戒感を抱いたジミー・カーター大統領(第三九代。在任=一九七七~八一)は、科学アカデミーに調査を命じた。有名な気象学者でマサチューセッツ工科大学のジュール・チャーニーを委員長とする七人の委員が任命された。チャーニー教授は一九四〇年代に、天気の数値予報が可能であることをはじめて主張した学者だった。
大気中の二酸化炭素と気象について研究する特別委員会(通称「チャーニー委員会」)は、マサチューセッツ州ウッズホールにある夏季の研究センターで、五日間におよぶ研究会を開いた。その報告は、明確なものだった。委員たちは、すでに公表されたデータに対する反証を見つけ出そうと試みたが、徒労に終わった。委員会の報告は、次のように述べている。
「もし今後も二酸化炭素が増え続ければ、気象の変化は間違いなく起こると思われ、看過できるものではない」
前工業化時代と比べて二酸化炭素が倍増した時点で、気温は華氏で二度半から八度(摂氏で〇・九度から三度)も上がる可能性がある。だが専門委員たちは、すでに動き始めている変化がどれくらいのスピードで進むのか、予測がつかなかった。気象状況の変化には、時差があるからだ。大気中に二酸化炭素が増えると、地球の「エネルギー・バランス」が崩れる。バランスを取り戻すためには、物理の法則に基づけば、海洋を含めて地球の気温が上昇することは避けられない。チャーニー委員会では、「何十年間」もかかるものと推測している。それに対処すべき従来型の方法論としては、実際に気温が上がって推測モデルと接近するのを待つのだが、これはかなり危険を伴う「待ちの姿勢」だ。報告には、こうある。
「二酸化炭素がかなり増え、気象の変化が体に感じられるまで、私たちは警告を受けないのが従来の通常のパターンだった」
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