書籍名 | 地球温暖化の現場から |
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見出し | 1章 アラスカ・シシュマレフで |
アメリカ・アラスカ州西岸スアード半島の沖八キロにあるサリチェフ島に、シシュマレフという村がある。サリチェフは、東西が四〇〇メートルほど、南北はおよそ四キロの小島で、島の集落といえばシシュマレフだけだ。北はチュクチ海で、付近一帯はベーリング陸橋国立保護区に指定されている。おそらく、アメリカで最も観光客の少ない国立公園の一つに違いない。最後の氷河期のころ、海抜の水位は現在と比べて九〇メートルほど下がっていたと思われ、一六〇〇キロにもわたって陸地が露出していたと推定される。氷河期のあと一万年あまりも温暖な気候が続いているが、まだ水面上に陸地が点在している。
シシュマレフ(人口=五九一人)は、イヌイットのイヌピアック族の集落で、季節的に移動するための人口変動はあるものの、数世紀にわたって住み続けてきた。アラスカ先住民の多くの村と同じく、ここでも太古の生活と近代的な様式が奇妙に入り混じっている。たいていの人びとは、主としてヒゲアザラシの狩猟に依存する耐乏生活を続けているが、まれにセイウチ、ムース(オオヘラジカ)、ウサギ、渡り鳥などを仕留めて食用にすることもある。
私が訪れたのは四月で、雪解けが始まり、アザラシ狩りのシーズンに入ったころだった(私は歩き回っているうちに、前年に雪のなかに蓄えていた獲物が露出し、あやうくつまずいて転びそうになった)。村の移住計画を立案しているトニー・ウェイオウアナが、自宅での昼食に招いてくれた。居間には大画面のテレビが置いてあって、団体加入でだれもが安い料金で、番組づくりにも参加できるパブリック・アクセス局で、ロック・サウンドトラックの番組を流していた。「こちらにお住まいのお年寄りの方がた、お誕生日おめでとうございます」というテロップが出て、名前が繰り返し流されていた。
シシュマレフの伝統的なアザラシ狩りの手法は、海氷の上をイヌぞりで走るもので、最近はスノーモビルが使われる。獲物を持ち帰ると、女性たちが皮を剥いで肉を保存する。その作業が、何週間も続く。一九九〇年代のはじめごろ、狩人たちは氷の状態に変化が出始めていることに気づいた(イヌイットがさまざまな氷の状態を表すことばを何百も持っているというのは誇張で、イヌピアック族が区別するのは、「シクリアック(若い氷=表面は平ら)」、「サッリ(積パックアイス氷=広大な氷丘)」、「トゥバック(内陸氷)=ランドロック・アイス」などごく少数に限られる。氷結の始まりは秋が深まるまで遅れるようになったし、解け始めるのは春も浅いうちに早まった。かつては、氷上を三〇キロあまり進むことができた。� ��がいまでは、アザラシが近づくころには氷が薄くなって、その半分の距離までしか行けない。ウェイオウアナは、「イヌがびちゃびちゃ(*1)」、という表現を何回も使った。
「そうなると、身の毛もよだって、目はまんまる、まばたきもできなくなります」
スノーモビルなどとても危険で使えず、人びとはボートに切り替えた。
海氷の変化は、すぐにほかの問題点を生んだ。シシュマレフ村は、最高地点でも海抜わずか六・六メートルしかない。住宅はほぼアメリカ政府が建てた小さい箱型の家で、それほど頑丈そうには見えない。チュクチ海が早い時期に凍結したころには、氷が重なり合って村を守ってくれた。水泳プールにビニールシートをかぶせておけば、風が吹いても波立たないのと同じ原理だ。だが氷結する時期が遅れると、嵐の大波が襲った場合シシュマレフは大きな被害をこうむる。一九九七年一〇月の嵐は、村の北端を幅四〇メートル近くにわたって削り取った。何軒かの家が倒壊し、十数軒が別の場所に家を建て直さざるを得なかった。
二〇〇一年一〇月にも嵐が来襲し、村には高さ七・五メートルの波が押し寄せた。二〇〇二年の夏、シシュマレフの住民たちから動議が出され、投票の結果、一六一票対二〇票で村全体が本土に移住することを決めた。アメリカ陸軍工兵隊は、二〇〇四年にやっと適地を見つけた。候補地はいくつかあったが、いずれもサリチェフ島と負けず劣らずの辺地で、近隣の町や集落までの道路もないところだった。全員が引っ越すまでに、アメリカ政府が負担する費用は一億八〇〇〇万ドルと見積もられている。
シシュマレフで私が話をした住民たちは、この移住に対して賛否まちまちの感想を語った。この小島を離れると海とのつながりが絶たれてしまい、生き甲斐がなくなってしまうと話していた。ある女性は、「寂しくなります」と述懐した。しかし生活が便利になると思われる面もあるので、期待に胸を膨らませている者もいる。シシュマレフには、上水道もないからだ。しかしだれもが感じたのは、これまでも生活環境はひどかったが、それがさらに悪化するに違いあるまい、という点だった。
六五歳になるモリス・キユテラックは、これまでの生涯をほぼシシュマレフで過ごしてきた。彼が語ってくれたところによると、彼の姓キユテラックは、「木のスプーンもない」という意味なのだそうだ。私が彼と出会ったのは、私が教会の地下室でたむろしていたときのことだった。ここに、「シシュマレフ侵食と移住連合」の事務所があったからだ。キユテラックは、次のように語った。
「私がはじめて地球温暖化のことを日本人から聞いたときは、とても信じられませんでした。でも、優秀な科学者がいるんですね。だんだん、現実の問題になってきていますから」
全米科学アカデミーは、一九七九年に地球温暖化の研究に取り組み始めた。その当時、気象のモデル化は、まだ端緒に付いたばかりだった。その分野に深く関わって、大気中の二酸化炭素の濃度が上昇している影響について研究していたのは、アメリカ気象大気庁の真鍋淑郎と、NASA(アメリカ航空宇宙局)ゴダード研究所のジェームズ・ハンセンくらいだった。だがそれらの報告に警戒感を抱いたジミー・カーター大統領(第三九代。在任=一九七七~八一)は、科学アカデミーに調査を命じた。有名な気象学者でマサチューセッツ工科大学のジュール・チャーニーを委員長とする七人の委員が任命された。チャーニー教授は一九四〇年代に、天気の数値予報が可能であることをはじめて主張した学者だった。
大気中の二酸化炭素と気象について研究する特別委員会(通称「チャーニー委員会」)は、マサチューセッツ州ウッズホールにある夏季の研究センターで、五日間におよぶ研究会を開いた。その報告は、明確なものだった。委員たちは、すでに公表されたデータに対する反証を見つけ出そうと試みたが、徒労に終わった。委員会の報告は、次のように述べている。
「もし今後も二酸化炭素が増え続ければ、気象の変化は間違いなく起こると思われ、看過できるものではない」
前工業化時代と比べて二酸化炭素が倍増した時点で、気温は華氏で二度半から八度(摂氏で〇・九度から三度)も上がる可能性がある。だが専門委員たちは、すでに動き始めている変化がどれくらいのスピードで進むのか、予測がつかなかった。気象状況の変化には、時差があるからだ。大気中に二酸化炭素が増えると、地球の「エネルギー・バランス」が崩れる。バランスを取り戻すためには、物理の法則に基づけば、海洋を含めて地球の気温が上昇することは避けられない。チャーニー委員会では、「何十年間」もかかるものと推測している。それに対処すべき従来型の方法論としては、実際に気温が上がって推測モデルと接近するのを待つのだが、これはかなり危険を伴う「待ちの姿勢」だ。報告には、こうある。
「二酸化炭素がかなり増え、気象の変化が体に感じられるまで、私たちは警告を受けないのが従来の通常のパターンだった」
新たに百日大恐慌のダメージを
チャーニー委員会の報告が出されてから二五年あまりが経ち、その間にアメリカは地球温暖化に対する警告をひんぱんに繰り返してきた。それらの一部をまとめただけで、何冊もの本になってしまうほどだ。この問題に注意を喚起する努力の歴史だけでも、何冊分かになる。チャーニー報告のあと、アメリカ科学アカデミーはこの問題に関して二〇〇近い研究をおこなっている。たとえば、「気象変化による輻射熱の放射」「気象変化のフィードバック・メカニズム」「温室効果に対応した政策」などがある。この間にも、二酸化炭素の放出は増加し続けていて、年間で五〇億トンから七〇億トンに増加した。気温のほうも、真鍋・ハンセンが予告した通り、着実に上昇している。一九九〇年の気温はそれまでの最高だったが、翌九一年� ��はさらにそれを上回り、記録を更新した。それ以後も、ほぼ年ごとに温暖化が進んでいる。
この本をまとめている時点までで、観測史上、最も気温が高かった年は一九九八年だった。それに僅少差で二番目が、同じ気温だった二〇〇二年と二〇〇三年。三位は二〇〇一年で、二〇〇四年が第四位になる。気候は変化しやすいものだから、この原因を断定するにはかなりの時間がかかる可能性がある。アメリカの大きな学術団体として信頼度も高いアメリカ地球物理連合は二〇〇三年に、ある結論をくだした。同連合はこの年の総会において、全会一致で次のような宣言を出したのだった。
「地球の地表付近で起こっている急速な気温の上昇は、自然の摂理だけでは説明できない」
世界の気温は、この二〇〇○年間で最も高い状態になっている。もしこの傾向が今後も続けば、二一世紀の末には、この二〇○万年で最も気温が高い状態になると予測される。
別の角度からいえば、地球の温暖化は単なる空論ではなく、仮説でもないだけに、重みがある。世界中の大氷河は、ほぼすべてが縮小している。グレイシャー(氷河)国立公園(モンタナ州)の氷河はかなりのスピードで後退していて、このままだと二〇三〇年には氷河が消滅してしまうのではないか、と懸念されている。海水は温度が上昇するだけではなく、酸性化しつつある。昼間温度と夜間温度の差も、縮まる傾向にある。動物の行動半径は、北極・南極の両極に向かって広がっている。花の開花日も、ものによっては何週間も早まっている。チャーニー委員会は、手をこまねいていてはいけないと警告していたが、現実にはまだ変化が感じ取れないほど微妙なものである場合が多く、ほぼ見過ごされている。
だが、もはや無視できない変化も現れている。シシュマレフのように、ごくわずかな人間しか住んでいないところに、最も劇的な変化が見られる。人跡まれな極北の地に地球温暖化のゆがみが顕著に現れる現象も、初期の気象モデルですでに予言されていた。コンピューター・プログラミングのフォートランがはじき出した膨大なデータが、いまや直接に観察できるようになっている。北極は、着実に解けつつある。
北極の陸地の大部分、それに北半球の陸地の四分の一―つまり五五億エーカー(二二三億平方メートル)は、永久凍土に覆われている。シシュマレフを訪れてから何か月かして、私はふたたびアラスカ州に戻ってきた。地球物理学者で永久凍土に詳しいウラジーミル・ロマノフスキーとともに、内陸部を旅するためだった。ロマノフスキーはアラスカ大学教授で、この大学の本部はフェアバンクスにある。そこで私は、まずフェアバンクスに飛んだ。町全体が濃い霧のような霞にすっぽり包まれていて、ゴムが焼けるような臭いがした。地元の人たちの話によると、私が着いたのはまだましな時期で、数週間前には、もっとひどかったという。
「イヌさえもマスクをしているほどでした」と、ある婦人が言った。私は、笑っていたに違いない。
「冗談ではないんです」と、彼女は強調した。
フェアバンクスはアラスカ州で二番目に大きな都会だが、周囲は森で囲まれている。ほとんど毎年のように、夏になると落雷で山火事が起こる。空いっぱいに煙が充満する状態が何日も続き、ひどいときには数週間にも及ぶ。二〇〇四年には六月という早い時期に山火事が始まり、私が訪れた八月末まで、もう二か月半も燃え続けていた。消失面積は六三〇万エーカーという記録的な広さになり、これはアメリカ・ニューハンプシャー州の大きさにほぼ匹敵する。これくらいの大火災になると、天候にも影響を与える。ものすごく熱が出るし、乾燥してしまうからだ。フェアバンクスのこの年の平均気温は観測史上で最高を記録したし、降雨量は低いほうから三番目だった。
私がフェアバンクスに着いた翌日、ロマノフスキーがホテルに迎えに来て、町の地下状況を案内してくれた。永久凍土の研究者にはロシア人が多いのだが、彼も例外ではない(ソ連はシベリアに収容所を建設する必要があったため、その研究を進めざるを得なかった)。太った大男で、茶色のモジャモジャ頭、アゴもエラが張っている。ロマノフスキーは学生時代、プロのアイスホッケー選手になるか、地球物理学者になるか、悩んだそうだ。後者を選んだのは、彼によると、「ホッケー選手よりも、科学者のほうがいくらか成功しそうに思えたから」だという。彼は二つの修士号と、二つの博士号を取った。ロマノススキーがやってきたのは午前一〇時だったが、火災の煙のためにあたりは明け方のように薄暗かった。
少なくとも二年間、凍結しっぱなしの土地を永久凍土と呼ぶ、と定義されている。シベリア東部などでは、地下一・五キロほどまでが永久凍土だ。アラスカでは、地下六~九メートルから六〇〇ないし九〇〇メートルが永久凍土。フェアバンクスは北極圏のすぐ外周にあり、永久凍土が断続している。つまり、ほぼ凍った地面の上に存在していることになる。
ロマノフスキーが最初に連れて行ってくれた地点の一つは、彼の家からそれほど遠くないところだった。永久凍土が点在する地面に、直径一八〇センチ、深さ一五〇センチほどの穴が開いている。その近くにもっと大きな穴があるが、こちらには地元の公共事業局が砂利を詰めている、とロマノフスキーは説明してくれた。このような穴は、専門用語では「サーモカルスト」と呼ばれている。永久凍土が消えたとたんに、腐った床板のような形で、突如として現れたという(永久凍土が融けた状態を専門用語では「タリク(talik)」と呼ぶが、これはロシア語で「凍っていない」の意)。ロマノフスキーが指差す道の反対側には、長い溝が森に向かって走っていた。彼の説明によると、くさびのような地中の氷が解けたときに起きる現象� �という。近くか真上に立っていたと思われるトウヒの木々が、嵐にあおられたかのように傾いていた。地元では「酔っぱらった」木と呼ぶ。倒れた木もあった。
「グデングデンに酔ってますよ」と、ロマノフスキーは評した。
アラスカでは、最も新しい氷河期に、地面が凍って割れ、そこに水が入り込んで氷のくさびが打ち込まれたような状態になった。これらのくさびは何十メートルあるいは何百メートルにも及び、網目のように入り組んでいた。それが解けた跡には、ダイヤモンド型や六角形の穴が残る。「酔っぱらった森」の少し先に一軒の家があり、その前庭にも氷のくさびが解けた跡の窪地が歴然と見て取れる。だがこの家の所有者はこの地形を存分に生かそうと考えて、前庭をミニ・ゴルフコースに仕立てた。家はもう無人だが、ロマノフスキーが指差した家の角を見ると、家屋はほぼ真っぷたつに割れている。母屋は右に傾き、ガレージの部分は左にかしいでいる。家は一九六〇年代か七〇年代のはじめに建てられたもので、一〇年ほど前までは� ��っかりしていた。
だがそのころから、地下の永久凍土が融解し始めた。ロマノフスキーの義母は、この付近に二軒の家を持っていた。彼はすぐ手放すよう、義母を急がせた。彼が見せてくれた一軒はすでに他人名義だが、屋根は醜く割れている(ロマノフスキーが自分の家を買うときには、永久凍土がない地域で探した)。
彼は、次のように語っている。
「一〇年前には、だれも永久凍土のことなど気にもかけていませんでした。でもいまでは、だれもが詳しく知りたがっています」
tagi滝
ロマノフスキーらアラスカ大学のチームがフェアバンクス周辺の永久凍土地区で計測したところによると、温度がマイナス一度にもならないところが多い。永久凍土でも、地面に衝撃が加わる道路や家屋、庭などの地下では、すでに融解が始まっている。ロマノフスキーはアラスカ州北部のノーススロープでも計測しているが、すでに摂氏〇度近くまで上昇している場所が見られる。道路に開いたサーモカルストの穴や地下室の下部にある融けたあとのタリクは、その周辺の住民たちに難題を投げかける。永久凍土の温度が上がってくると、不動産さえ手放さざるを得なくなる。
そればかりではない。長期的に気温が上昇し、温室ガスで覆われるようになる。暖かい気温が続くとガスが大気中に放出され、さらに地球の温暖化を促進する。永久凍土の時代がどれくらい持続したのか特定しにくいが、アラスカの場合、最後の氷河時代が始まったころからずっと継続していたのではないか、とロマノフスキーは推測する。そうだとすれば、解けるのは一二万年ぶりということになる。
「興味ある時代ですね」とロマノフスキーは語った。
ロマノフスキーは、翌朝は午前七時に私を迎えに来た。フェアバンクスの北八〇〇キロのところにあるプラッドホウ湾にあるデッドハウスの町まで遠出するからだ。彼はこの付近に電子観測機器を設置していて、年に一度はデータを集めに行く。途中の道路はほぼ舗装されていないから、トラックを借りて行く。正面ガラスは、あちこちにヒビが入っている。私が懸念すると、彼は「アラスカじゃ、どの車も同じですよ」と、気にもしなかった。彼はトスティトスのマークが入った大きなバッグに、チップスなどの食品を詰めて携行した。
私たちがたどるドールトン・ハイウエーは、アラスカ石油のために建設されたもので、パイプラインはその後に設置された。パイプは道の右側になったり左側を走ったりする。永久凍土の地域なので、パイプラインはほぼ地上を走っている。凍結防止のため、低温で気化するアンモニアを詰めた杭で持ち上げられている。私たちの車を、何台ものトラックが追い抜いて行く。何頭ものカリブーの頭部を乗せているトラックもあるし、アリエスカ・パイプライン・サービス社のマークが描かれている車もある。アリエスカ社のトラックには、「事故は起こしません」という、何か場違いなスローガンが記されている。
フェアバンクスを出て二時間ほど走ったところで、最近の火災で焼失した地域を通過したが、なかにはまだくすぶっている場所もあった。やがて、ときにまだちょろちょろと炎が残っている個所にも遭遇した。この光景はダンテの『神曲・地獄編』や、映画「地獄の黙示録」を思い起こさせた。私たちは、煙のなかをゆっくりと進んだ。それからさらに数時間が経って、私たちは「コールドフット(冷たい足=おじけづくの意)」という場所に着いた。一九〇〇年ごろ金鉱を探してここまでやって来たが、足が冷たくなって退散したのだろう。トラックの休憩所で昼食を取ったが、人家はこれ一軒だけといってもよかった。コールドフットを出ると、常緑樹が繁っていて、「アラスカ・パイプライン沿いで北限のトウヒ。伐採を禁ず」と� ��う標識があった。だれかが、電動ノコを入れたに違いない。幹に深い切り込み跡が残り、頑丈なテープを巻いて補修してある。
「でも、枯れちゃうでしょうな」と、ロマノフスキーは言った。
午後五時ごろになって、私たちは計測機器が設置してある最初の地点に向かう分岐点にやっと到着した。私たちはすでにブルックス山脈の近くまで来ていて、山々は午後の陽を浴びて紫色に輝いていた。ロマノフスキーの同僚が、計測地点まで飛行機で飛んでくることを夢見て、早い流れの近くにある小さな滑走路のそばに設置したのだが、これは実現していない。雨が少ないために川の流水量は少なく、私たちはゴム長をはいて川を渡った。
ツンドラ地帯に埋まりかかって突っ立っている何本かの柱には、太陽エネルギーを吸収するソーラーパネル、六〇メートルほどの深さまで掘削した穴に接続した太いワイヤー、コンピューターを備えた冷蔵庫のような白い箱、などの計測機械がある。前年の夏には地上一メートルほどの高さにあったのだが、いまでは地面すれすれのところまで下がっている。ロマノフスキーははじめだれかのいたずらかと疑ったが、よく調べてみるとクマの仕業であることが判明した。彼が白い箱にノートパソコンを接続してデータを収集している間、私は野生動物が近づいてこないか、警戒の目を光らせていた。
炭鉱のように地中深く掘り進むと地球の中心の熱が伝わって暑くなるのと同じく、永久凍土の場合も地下を掘り進むと温度が上がる。均衡状態にある場合、つまり気象が安定しているときには、ボーリング穴の底ではかなり温度が高まっているが、上に行くにつれて次第に温度は下がる。このような状態では、永久凍土の表面が最も温度は低くなり、グラフで表示すると線は一方向に傾く。ところがここ数十年の状況を見ると、アラスカの永久凍土の温度変化を示す折れ線はたわんでいる。つまり直線ではなく、鎌のようにカーブしている。永久凍土は相変わらず最下部で最も温度が高いが、最上部で最も温度が低くなるはずなのに、どこか途中で最低になっていて、地表に近づくとまた温度が上がる。気温が上昇している、確かな証拠� ��。
トラックに戻り、デッドホースに向かうでこぼこ道を走りながら、ロマノフスキーが説明してくれた。
「大気の温度はきわめて変動幅が大きいので、トレンドがつかみにくいのです」
彼がトスティトスをしこたま袋に詰めて持ってきたのは、腹が減ったら困るからではなく、疲れを癒すためだったことが分かった。嚙んでいると、眠気を防げるから、と彼は言った。大きな袋だったのに、もう半分あまりがなくなっている。
「ある年、フェアバンクス周辺の年間の平均気温が零度(華氏三二度)だったとすると、温暖化が進んでいるとだれもが言います。ところが別の年に平均気温がマイナス六度(摂氏二一度)になると、だれもが、あなたが言う温暖化はどうなっちゃったんだ、って疑問を口にします。
大気の温度がもたらすメッセージは、音と比べるとはるかに微弱です。しかし永久凍土は、効率はよくないかもしれませんが、データを収集するフィルターの役を果たしてくれます。ですから、大気より永久凍土の温度を測ったほうが、トレンドが簡単に摑めるわけです」
アラスカ州のほとんどの地域で、永久凍土の温度は一九八〇年代と比べると、三度ほど上がっている。場所によっては、六度近くも上昇したところがある。
北極周辺を歩いているということは、永久凍土の上を歩いているとは言えなくなり、その上部にある「活動層」の上を歩いているといったほうが当たっている。活動層の厚みは、場所によって数センチ、あるいは一メートルあまりに達することもある。冬季には凍るが、夏には解ける。植物も生育する。灌木やコケ類が生えるし、条件がよければ背の高いトウヒも育つ。
活動層の植物は、もっと気温の高い場所のものと変わらないが、一点だけ大きな差がある。気温がきわめて低いため、木や草が枯れても腐敗・分解しない点だ。新しい植物は、完全に腐り切らない先代の上に育ち、これらが枯れては同じことが繰り返される。この現象を「凍結撹乱作用」と呼び、有機成分は活動層の下の永久凍土の下に層となって押し込められて、何層にも重なっていく。そのまま何千年も眠った状態で、まるで映画のストップモーションのような形で時間だけが経過する(フェアバンクスでは、最後の氷河期の半ばごろの地層から、まだ緑色をした草の残滓が見つかったことがある)。したがって、永久凍土には炭素が蓄積され、石炭や泥炭沼地となって堆積する。
温度の上昇に伴う危険の一つは、この貯蔵過程が逆行しかねないことだ。条件が整った場合、何千年、何万年も凍結していた有機物質が分解し始め、二酸化炭素やメタンガスを発生させる。これらの持続時間は短いものの、強力な温室効果がある。北極圏の一部では、すでにこの現象が起きている。たとえばスウェーデンの研究者たちは、首都ストックホルムの北一五〇〇キロほどの地点にあるアービスコの町に近いストーダレン湿地で、三五年ほどにわたってメタンの発生量を計測している。この地域の永久凍土が暖まるにつれてメタンガスの放出量は増加し、場所によっては六割も増えた。
人は、アフリカの動きに戻って整理
永久凍土が融け始めると、活動層では炭素を吸収しやすい植物が活発になりがちだ。ただし、これだけでは温室効果のあるグリーンガスを発生させるには至らない。世界の永久凍土にどれほどの炭素が含有されているのかだれにも分からないが、最も高い推定値では四五〇〇〇億立方トンに達する、とされている。ロマノフスキーは、次のようなたとえ話をした。
「インスタント食品みたいなもんですよ。材料はすでにミックスされてますから、ちょっと熱を加えてやれば、すぐに料理はでき上がりです」
私たちがデッドホースに到着した翌日、降り止まないこぬか雨のなか、次の観測地点に向かっていたときだった。ロマノフスキーは続けた。
「時限爆弾みたいなものです。ちょっと温度が上がっただけで爆発です」
彼はデニムの作業着の上にレインコートを羽織っていた。私の分も持ってきてくれていたので、私も重ね着した。彼はさらに、トラックの荷台からビニールシートも持ってきた。
ロマノフスキーは資金が手に入るとすぐ観測地点を増やす。現在は六〇か所に達し、私たちがノーススロープにいる間は、日中いっぱい、場合によっては夜になっても(なにしろ夜一一時近くになっても明るいから)仕事を続けた。
彼はまず、コンピューターを自記データのロッガーにつないで数値を読み込む。前年の夏から、一時間ごとに永久凍土の温度が記録されている。雨が降っていると、ロマノフスキーはビニールシートの下でうずくまって作業する。T字型をした金属の計測器を一定間隔で地中に差し込み、活動層の深さを測る。この計測道具は、長さが一メートルほどある。それでも、もう寸法が足りないほどだ。この夏はかなり気温が上がったから活動層は深くまで延びていて、ところによっては数センチも深まっている。かなり深くまで達しているため、ロマノフスキーは計測器に木の物差を継ぎ足す方法を取らざるを得なくなった(私は、彼の防水ノートに数値を書き込む手伝いをした)。
彼の説明によると、熱によって活動層の厚みが増して下まで伝わるので、永久凍土は解氷点近くまで上昇する。
「来年また来てみれば、変化が分かりますよ」と、彼は勧めた。
ノーススロープで過ごした最後の日、ロマノフスキーの友人で、ニュージャージー州にあるスティーヴンス工科大学の微生物学者ニコライ・パニコフが到着した。彼のテーマは寒冷地を好む微生物を見つけて持ち帰り、研究することだ。かつて発見された、火星と同じ環境だと思える条件下でも活動できる菌があるかどうかを確定するのが目標だ。パニコフは、火星には生命体がある―少なくとも過去には存在した、と信じている。それに対してロマノフスキーは目玉をぐるりと回し、疑わしさを表現した。だがロマノフスキーは、パニコフが永久凍土を掘り返すことは許した。
その日、私はロマノフスキーとヘリに乗り、北極海の小島に飛んだ。ここにも、計測機械を設置してあるからだ。北緯七〇度よりわずか北にあり、荒涼とした泥地が広がり、ところどころに枯れて黄色くなった植物が点在しているだけだった。融け始めたアイスウェッジがあちこちにあって、地面はでこぼこだ。小雨がそぼ降って気温が下がり、ロマノフスキーがビニールシートの下でうずくまって作業している間、私はヘリに残ってパイロットと話をしていた。彼は一九六七年からアラスカに住んでいるそうで、こう述懐していた。
「私がここに来てから、明らかに暖かくなりましたよ。肌で感じます」
ロマノフスキーが仕事を終えたので、私たちは島を散策した。春には、明らかに鳥たちがここで子育てをしていたと思われる。あちこちに、割れた卵の殻や糞が落ちている。島の標高は高いところでもせいぜい三メートルほどで、周囲は断崖になって海になだれ込んでいる。ロマノフスキーは、昨年の夏には、海岸線のあのあたりにアイスウェッジの穴がたくさん並んで目を引いた、と指で示しながら説明した。
だがいまでは、融け切って黒い泥がうねっている。彼の予測では、あと数年のうちにもっと多くのアイスウェッジが露出してやがて融け、侵食はさらに進むに違いなかろうと言う。この進行過程はシシマレフの場合とは異なっているが、原因はほぼ同じで、ロマノフスキーによれば、似たような結果をもたらす。新たに露出した断崖のほうを指しながら、彼は断じた。
「また、島が消える。しかも、もっと速いスピードで」
一九九七年九月、「デ・グロセリエ」という、全長九七メートルの真っ赤なカナダの船が、ボーフォート海沿岸のトゥクトヤクトゥクを出港し、雲の垂れ込める海上を北に向かった。この船はケベックを母港とするカナダ沿岸警備隊の砕氷船なのだが、このときはアメリカの地球物理学者たちを乗せて出航し、北極海の浮氷の間を漂いながら突き抜ける過程で、さまざまな実験を予定していた。この実験航海は何年間も準備に時間をかけたもので、主催者たちは前回の一九七五年におこなわれた北極探検のデータを丹念に集めた。
デ・グロセリエに乗船した科学者たちは、北極圏の海氷が後退していることを認識していた。まさにその点が、研究の主眼だった。だが、彼らのもくろみが外れた点もある。越冬地点は北緯七五度付近で、氷の厚さは二・七メートルと想定していたのだが、一・八メートル以下だった。乗船していたある科学者は、こう語っていた。
「たとえて言えば、万全の身支度を整えていざ出かけようとしたのに、どこにも行くところがない、という感じでしたね」
スポンサーである全米科学財団に電話して、「お目当ての氷は見つかりませんでした」と報告するのもバツが悪い話だった。
北極海の海氷には、二種類がある。冬に凍って夏に解ける季節的なものと、つねに凍ったままの万年氷だ。素人目には、区別がつかない。だが舐めてみると、どれくらい長いこと漂っていたのか、見当がつく。海水が凍るとき、結晶構造のなかには塩分の居場所がなくなるため、押し出されてしまう。だが氷が厚くなってくると、濃縮された塩分は小さい孔に付着してたまる。したがって、結氷一年目の氷は塩辛い。ところが時間が経つと、塩分は細い血管のような隙間を通して排出され、塩分はほぼなくなる。長い年月を経た氷は、溶かせば飲むこともできる。
北極海の海氷状況を最も精緻に観測しているのはNASAで、マイクロ波センサーを搭載した複数の衛星でデータを得ている。一九七九年のデータによると、万年氷はアメリカ本土と同じくらいの面積、一七億エーカー(六八〇万平方キロ)を覆っていた。氷の広がりは年によって変化するものの、それ以降は大幅に減少の一途をたどっている。減少傾向がとくに著しいのは、ボーフォート海とチュクチ海、それにシベリアとロシア北方のレプテフ海だ。それから二〇〇五年に至るまで、「北極振動」は「プラス」だ。北極海の上空に低気圧が発生するとプラス状態になり、極地付近で強風が吹くとともに温度が上昇する。
近年の北極振動が温暖化と無縁であるのか、その結果であるのか、まだ特定できていない。しかし現在までに、北極海の万年氷は二億五〇〇〇万エーカー(一〇〇万平方キロ)も減少した。アメリカでいえば、ニューヨーク州、ジョージア州、テキサス州を合わせたほどの面積になる。北極振動がプラスの状態が長期にわたって続いているが、数学モデルから言えば、万年氷の減少はこれだけが原因ではない。
デ・グロセリエが出航した時点では、海氷の厚さについての情報はほとんど入手できていなかった。それから数年後、原子力潜水艦が別の目的で調べている過程で明らかになった。一九六〇年代から九〇年代にかけて、北極海のかなりの部分で、氷の厚みは四割近くも薄くなった。
デ・グロセリエ船上の科学者たちは、最も適切だと思える浮氷を見つけたら、そこに定着して観察することに決めた。選んだのは、広さ七七平方キロの浮氷だった。氷の厚さは、場所によっては一メートル八〇センチあったが、九〇センチくらいのところもあった。実験装置を収納する小屋を建て、安全確認の手順が定められた。小屋から出るときは必ず二人で組んで、無線装置を携えて行く。たいていの者が、銃も携えて出かけた。ホッキョクグマに遭遇する可能性もあるからだ。氷が思ったよりはるかに薄いので、研究で滞在しているうちに厚くなるだろう、と期待した科学者たちもいた。だが、実際には逆に薄くなってしまった。デ・グロセリエは一二か月、浮氷の上に滞在し、その間に四八〇キロほど北へ向かって漂流した。こ� ��一年で、氷の厚さは場所によっては三分の一にまで減少した。一九九八年八月の時点で、科学者たちは新しい申し合わせが必要になった。船外に出る場合はライフジャケットを着用すること、という項目が追加されたのである。
ドナルド・ペロヴィッチは、三〇年間も海氷の研究を続けている。デッドホースから戻って数日を経た雨の日、私はニューハンプシャー州ハノーヴァーにある彼の研究室を訪ねた。彼が働いている機関は、「寒冷地工学研究所(CRREL)」で、英語の頭文字は「クレル」と発音する。これは一九六一年に設立され、米軍の管轄下にある。冷戦時代の産物で、もしソ連が侵略してくるとしたら北方からに違いない、という想定で研究が進められた。
ペロヴィッチは背が高く、黒髪で眉毛も濃い。対応にも、熱意が感じられる。彼はデ・グロセリエの探検では隊長格の科学者で、その際に撮影された写真が研究室の壁にたくさん貼られていた。船の写真もあるし、小屋やテント、よく見ると遠方にホッキョクグマが写っているものもある。クリスマスを祝う暗い野外パーティーで撮った粒子の粗い写真では、だれかがサンタに扮している。「あの探検ほど楽しい体験はありませんでしたね」と、彼は探検行を振り返る。
ペロヴィッチの専門分野は、CRRELの経歴によると「太陽熱と海氷との相関関係」となっている。デ・グロセリエによる遠征の間、ペロヴィッチはもっぱら「分光ラジオメーター」と呼ぶ機械で浮氷の実態を観測し続けた。この機械を太陽に向けて投射光を捉えると同時に、氷面の反射光を測定する。後者の数値を前者で割ると、「アルベド(反射率=ラテン語の「白さ」が語源)」が得られる。四月、五月に浮氷の状態が割に安定していた時期には、一週間に一度の測定で十分だった。
だが六、七、八月になると氷の状態が急速に変化し始めたため、観測を隔日におこなうようにした。氷の上の雪が解けてシャーベット状になるにつれて、反射率がどのように変化するか、地図上に点を落として図示していく。シャーベットはやがて水たまりになり、ときには穴が開いて下の海面とつながってしまう。
完全に白い表面で光をすべて反射するものは「一」、黒い表面で完全に光を吸収してしまうものの反射率は「〇」だ。地球全体の反射率は〇・三だから、地球に降り注ぐ太陽光の三分の一弱が反射されてまた放出される。地球の反射率が変化している個所では、地球がエネルギーを吸収する度合いが違うためで、それは大きな影響をもたらす。ペロヴィッチは、こう語る。
「きわめて単純な数字ですが、重要な意味合いを持っているのです」
ペロヴィッチはあるとき、北極点の上を漂う宇宙船に乗っている自分を想像してみてください、と私に語りかけた。
「春先ですから、眼下の氷はまだ雪に覆われています。真っ白く輝いています。太陽光の八割あまりを反射しています。反射率は〇・八か〇・九です。もし氷がすべて解けて、海になったとする。海洋の反射率は〇・一以下の、〇・〇七くらいです。
雪に覆われた氷は最高の反射率で、地上の最大値です。ところが海面の反射率は、地上で最低で、これより低いものはありません。つまり、氷が解けると、反射率は最高から最低に移るのです」
つまり、開氷域が増えると、それに伴って海水はより多くの太陽エネルギーを取り込むことになる。そうなると、永久凍土が解けてより多くの二酸化炭素が放出されるのに似た、もっと直接的なプラスのフィードバックが起きる。北極で急速な温暖化が進んでいるのは、この「氷・反射率フィードバック」のおかげだ。
ペロヴィッチは、次のように語る。
「氷が解けることによって、地球のシステムに多くの熱が吸収される。そうなると、氷の融解をさらに促進させる。そこで熱の吸収も増加する。そのようにして加速されていくのです。気象上の小さな引き金が、大きな変化を引き起こすのです」
CRRELの建物から数十キロ東へ、メイン州とニューハンプシャー州との州境近くに、「マディソン・ボールダー・ナチュラル・エリア」という小さな公園がある。この名の由来である石灰岩の巨岩は、二階建ての家ほどの大きさがある。幅一一メートル、長さ二五メートル、重さは推定で四五〇〇トン。一万一〇〇〇年ほど前に、ニューハンプシャー州北部にあるホワイト山脈から押し出されたものと考えられている。巨視的な時間スケールで見ると、気象はそれ以後、激変していないことが分かる。
地質学的にいえば、私たちは氷河時代のあとの温暖期にいる。二〇〇万年にわたって、北半球は大きな氷床に覆われ、これが二〇回あまりもせり出しては後退するパターンを繰り返している(大きく張り出した際には、もちろんそれ以前の証拠は消されてしまう)。最も新しい進出期は「ウィスコンシン氷河期」と呼ばれ、約一二万年前に起こった。氷床はスカンジナヴィア半島の中心地からシベリアへ広がり、アメリカ大陸ではハドソン湾に近い標高の高い地域まで覆った。ヨーロッパやカナダも、全面的に氷床に閉じ込められた。南限はニューイングランドのほぼ全域とニョーヨーク、中西部の北方で、厚さ一・五キロほどの氷の下に埋まった。氷床は相当な重さがあるため、地殻を押し下げてマントルにまで達した(場所によって� ��、地殻均衡に向かっての反作用が、現在も続いている)。現在の間氷期(完新世)に入って氷床が後退したあとに、ロングアイランドのような末ターミナル・モレーン端堆積が残った。
いまではよく知られていること、少なくとも一般に受け入れられている説として、地球の軌道が一定期間で変動するときに、氷河のサイクルが始まる、とされている。変動の原因はいろいろあるにしても、ほかの惑星の引力が作用することが大きな要因だと見られている。そのために緯度によって受ける太陽光に変化が生じ、その周期が一巡するまでに何十万年もかかる。だが、軌道の変化だけでは、マディソン・ボールダーのような巨岩を動かすほどの氷床は生じない。
ローレンタイズのように、一万三〇〇〇平方キロにも及ぶ巨大な氷床は、現在、私たちが北極で研究しているようなフィードバック作用に類似したものが逆行した結果ではないか、と考えられる。氷が広がると、反射率が増す。すると熱は吸収されにくくなるので、氷床面積が増える。さらに、因果関係がまだ完全に解明されてはいないのだが、氷床が広がるにつれて二酸化炭素が減少する。過去二回の氷河期には、気温の低下に比例して二酸化炭素の量も減少した。逆に温暖の時期に入って氷床が後退すると、二酸化酸素の量も増加する。このような歴史を研究している者が到達した結論は、寒冷期と温暖期の温度差の半分は、二酸化炭素を軸にした温室ガスの多寡が左右しているという。
私がCRRELを訪れていた間に、ペロヴィッチは仲間のジョン・ウェザリーに私を紹介してくれた。ウェザリーの研究室のドアに貼られていた車用のステッカーは、SUV車に付けるにふさわしいジョークで、こう書かれていた。
「ぼくは天候を変えることができる。やり方は、ぼくに聞いて」
ウェザリーは、天候のモデルづくりを手がけていて、彼がペロヴィッチとともにデ・グロセリエで集めたデータをコンピューター用のアルゴリズムに変換してインプットし、気象予報に役立てたいと狙っていた。ウェザリーによると、実用化されている世界の主な気象モデルは一五種類ほどで、ある種のモデルによると、北極の氷は二〇八〇年までに完全に融解すると予測されている。その場合でも、冬に氷は張るものの、夏になると氷は消滅する。彼は言う。
「つまり、私の生涯には起きないけれど、子どもの時代には起きるということです」
ペロヴィッチの研究室に戻ってから、私たちは北極の長期的な未来について語り合った。彼によると、地球の気象システムは膨大なものだから、それほど簡単に変わることはないのだが、としながらも、次のように語った。
「たしかに一方で、地球の気象システムは膨大で確固としたものだと言えます」
ところが気象データを見ると、変化が起きるとしても徐々に進むものだという仮定が間違っている可能性もある。ペロヴィッチは、友人の氷河学者から聞いた話を傍証として上げた。その友人は、気象システムを手漕ぎボートになぞらえて説明したという。
「ボートをちょっと揺らしたくらいなら、すぐに戻ります。しかしそれを繰り返しているうちに、安定した位置に戻ったと思ったら、そのときはひっくり返って裏返しの状態になっているかもしれないのです」
ペロヴィッチの友人は、さらに次のようなたとえ話も語ってくれたそうだ。
「こんなふうにも、考えています。このあたりの草原の道をバイクで走っていて、斜面を転がり落ちてきた大きな石灰岩の丸石に出くわすとします。そのままじゃ通れないから、仲間たちの手も借りて、なんとか動かす。だが、待てよ、これが最善の解決法なんだろうか。私たちは、社会のなかでそのような処置をします。でも邪魔ものの天候をその道から転がし落としたとしても、次にどこで止まるのか、だれにも分からないじゃないか」
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