2012年4月12日木曜日

へてくろ日記。 : HIV差別がひどすぎて驚いた(後編)


(前編はこちらから)

急ごしらえの前編が思った以上にたくさんのアクセスを集めたみたいで、多くの人に意見を読んでもらえたのは喜ばしいのですが、かつてない人入りに少々びびっています。

ちょうどこのブログを始めて満5年になろうかとしているのですけど、ここ4日のアクセス数それまでのトータルのアクセス数匹敵しそうなんですよ。

なにしろ、それまで1日10人も読んでなかったですから。ここ。

そんなわけで軽くびびりながらも、平静を装いながら続きを書こうかと思います。

とりあえずは、前編でさんざん「後述する」と言っておきながら結局後述しなかった(ゴメンナサイ)HIVの医学的側面について、ざっくりとまとめます。

HIVについては、知っている� �もりでも誤解している人が結構多そうなんですよね。

特に医療職との関係とかになると、かなり誤解が深そうです。

例によって長くなるんですが、誤解を解くべく、以下に文章を連ねてゆきます。

■4. 「事実上ゼロ」のリスクを気にする?

どうもHIVとAIDSの違い(基本中の基本の知識ですが)を説明できる人ですらすごく少ないんじゃないかという気がして、本当はその辺の基礎から順を追って書くべきなんでしょうが、やっぱり今回も一番伝えたいポイントを最初に持ってきます。

というわけでいきなり核心。

「HIVを持った医療従事者から患者にHIVは感染するの? どうなの?」

はい。それではお答えしましょう。

「感染は起こり得ますが、適切な対処によりその可能性を下げることができます。残念ながら可能性をゼロにすることはできないのですが、『事実上ゼロ』にすることなら可能です

というところですね(根拠は後ほど示します)。

さて、というわけでなんだか感染の危� ��が高そうな医療職ですが、医療従事者が患者(ならびに同僚)にHIVを感染させてしまう危険性は「事実上ゼロ」と言えます

それなら安心。別に看護師がHIVキャリアだとしても、安心して質の高い医療が受けられますね!

……という話で誰もが納得してくれればカンタンなんですが、たぶんどうやらそうはいかなさそうです。

「事実上ゼロ」≠「ゼロ」だからです。

「ゼロ」は「無」ですが、「事実上ゼロ」は「有」です。

だから、リスクは「ある」か「ない」かという議論になると、リスクは「ある」ということになります。

そして、そのことをもって「リスクがあることは怖い」と考えてしまう人が少なくないようです。

しかし、果たしてそれは適切な判断でしょうか?

——ええと、ちょっとここでいったん確認しておきますね。大事なことなので。

前編でも言ったことなんですが、思想信条や言論は個人の自由です(ただし、その思想信条を他人に強要したり、思想信条に基づいて他人の人権を侵害してしまってはダメです)。

なので、僕は自分の意見を押し付けるつもりはないです。

ただ、その思想やら信条やらが非合理なもので、そしてその非合理さに気づいていないのなら、今一度考えてみるべきだと思います。

今回の話で言うと、「事実上ゼロ」のリスクを怖れることは明らかな「非合理」です

非合理であることを自覚しながら、それでいて「事実上ゼロ」のリスクを怖がることは、これはもう個人の自由だと言えるでしょう。
(僕は昆虫の蛾が怖くて怖くてたまらなくて、別に生命を脅かす存在でないと理解してても、やっぱり無理です。ゼッタイ無理。超怖い。ちなみに蝶も怖い。蝶怖い。無理)

だけど、非合理であることを自覚せずにリスクを怖れてしまっていては、なんだかそれは非常に残念です。

さらに非合理であることを自覚せずに、それでもって他者の人権を脅かす言論を行なってしまっていては、残念を通り越して論外というか、論外を通り越して残念というか、もう色々アウトです。

以上、確認でした。それでは本論に戻ります。

「事実上ゼロ」のリスクは本当に怖いでしょうか?


どのように避雷針が働いていますか?

実は「事実上ゼロ」のリスクは、何もHIVの感染に限ったことじゃありません。

ほとんど全ての医療行為は、必ず何らかのリスクを伴っています。

医者が診察に使う聴診器が実は細菌まみれかもしれないし、看護師の採血では血管に針を刺すつもりがうっかり神経を傷つけて一生麻痺が残るかもしれません。

出された薬には重大な副作用があるかもしれませんし、もしかすると薬の種類からしてうっかり間違われているかもわかりません。

そんなのいちいち全部気にしてたらとても怖くて病院になんてかかれませんが、病院に全くお世話にならなかったら、病気の早期発見や治療の機会を逃して悪化させたり死んだりするかもしれ ません。

そもそも病院に限らず、わたしたちの周りは「事実上ゼロ」のリスクだらけです。

スーパーの野菜は農薬まみれかもしれないし、かと言って無農薬野菜には寄生虫が棲んでいるかもしれません。

2秒後に小さな隕石が頭の上に降ってきて、打ち所が悪くて死ぬかもしれません。

全部可能性はゼロではありません。ほとんど無視して構わないレベル、「事実上ゼロ」と言って良いかとは思いますが、しかし「ある」か「ない」かと言われると、実際に「ある」リスクです。

まあ確率から言えば、たぶん隕石に当たって死ぬ確率よりは野菜の寄生虫に中って死ぬ確率の方が高そうではありますが、しかしほとんどの人はどちらの可能性も「事実上ゼロ」と見て、気にかけることもなく暮らしているで� �ょう。

そして、これらの「気にしていない」リスクたちと「HIVを持った看護師に医療行為を受けることでHIVに感染する」リスクとを明確に区別する客観的な理由はありません
(どの確率から「事実上ゼロ」とみなせるか、というのは確かに多少複雑な問題でしょうが)

あるとしたらそれはもう主観的な理由で、そこまで来ると個人の自由になってしまいます。

僕が「蛾が怖い。蝶もダメ。無理」と言っているのと同じで、「HIVキャリア怖い」も個人の思想としては誰もそこに干渉できません。

ただし「HIVキャリア怖い」は個人の思想でしかなく、誰かの人権に影響を及ぼすことは当然許容されませんし、その思想による不利益をこうむったとしてもそれは自分の責任です。そのことだけは十分理解しておかねばなりません。

■5. 医療従事者からのHIV感染:「事実上ゼロ」ってどれくらい?

それでは改めて、医療従事者から患者へのHIV感染が起こる可能性について考えてみたいと思います。

ここで参照するのは[HIV, HBV, or HDV transmission from infected health care workers to patients]という2003年の論文です。
(※Pubmedではタイトルが「HIV, HBV, or HDV〜」となっているのでそのまま引用しましたが、おそらくこの「HDV」「HCV」の誤植です)

Since 1972, 50 outbreaks have been reported in which 48 HBV infected HCWs (39 surgeons) transmitted the infection to approximately 500 persons. To date, 3 cases of transmission of HIV and 8 confirmed cases of transmission of HCV (to a total of 18 patients) from infected healthcare workers to patients have been reported.

The risk of transmission of HIV, HBV and HCV from HCWs to patients is associated primarily with certain types of surgical specialties (obstetrics and gynaecology, orthopaedics, cardiothoracic surgery) and surgical procedures that can expose the patient to the blood of the HCW: exposure-prone procedures.

この論文は、1972年から2003年までの感染症のレポートの中から、HBV(B型肝炎ウイルス)、HIV、HCV(C型肝炎ウイルス)の三つのウイルスにおいて、医療従事者から患者への感染が何例あったかの総数を報告したものです。
(※1972年時点ではHIVというウイルスはおろか、AIDSという病気すらも知られていなかったため、HIVについては1980年代以降の統計)

結果は、

・HBVは48名(うち39名が外科医)のキャリアから約500人の患者に感染。
・HIVの感染は3例。
・HCVは確実なものは8例(全部で18例)。

というものでした。更に、

・産科婦人科、整形外科、心臓血管外科といった特定の外科領域
・医療従事者の血液に曝露されやすい外科手技

が、まず第一に感染リスクと関連している、とのことです。


レンガはどのように新しいでしょうか?

このデータを見る限りでは、病院でHIVに感染するリスクはHBVに比べればずっと低いし、HCVに比べても低そうだと言えますし、さらに特定のハイリスクな外科領域以外では、HIVの感染リスクは低そうだということも言えます。

だから、普通の看護師が普通に仕事をするのは問題なさそうです。

先ほどのデータではHIVとは桁違いに感染例の多いHBVですが(ちなみにB型肝炎だって十分怖い病気です)、医療従事者がHBVキャリアである場合について厚生労働省が情報を提供しています。

詳Q56: B型肝炎ウイルス(HBV)に感染している保健医療従事者は仕事上の制限を受けますか?
詳A56: HBVに感染した保健医療従事者が仕事上の制限を受けることはありません
 一般に、HBV感染の有無にかかわらず、すべての保健医療従事者は、厳格な無菌操作と手洗いの励行、基本的な感染予防をこころがけ、注射針などの鋭利な器具による外傷を負わないように気をつける必要があります。
 このことを守っている限り、HBVキャリアの保健医療従事者から患者へ感染するリスクはきわめてまれです

(※太字筆者)

厚生労働省の見解ではHBVを持っていても「保健医療従事者が仕事上の制限を受けることはありません」し、感染するリスクも「きわめてまれです」。

いわんやHIVをや、です。HIVの場合、感染するリスクはさらにまれです。

針刺し事故の予防と対策という論文を参照してみましょう。

まず、

針刺し事故による感染の確率は HBV, HCV,HIV の順で、HIV が最も低く、約 0.4% といわれている。

とのことで、さらに

予防内服を事故後 1〜2 時間以内に開始することによって、感染確率は 1/5 に低下すると報告されている。

だそうです。

ええと、ここで「針刺し事故」について解説しておきますね。

針刺し事故というのは、まあそのまんま「注射器とかの針が刺さる」という事故なんですが、注意して欲しいのはこの事故の被害者は患者ではなく医療者であるということです。

どういうことか。

採血を例に取りましょう。採血の手順はだいたい以下のようなものです。

新しい注射器を準備する→血を抜く→抜いた血を試験管などに移す注射器と針を廃棄する

このとき、アンダーラインを引いた箇所で、うっかり針が自分の手に刺さってしまうことがあります

これが「針刺し事故」です。

このとき、患者側にはとくに被害はありません。

被害をこう� ��るのはうっかり自分の手に針を刺してしまった医療者自身で、患者の血液中にHBVなどのウイルスがいた場合、感染するおそれがあります。

件の報道に対する反応でも「HIVキャリアの看護師が採血するとか危ねーよ!」という意見が数多く見られましたが、そんなことはないです。

もしも医療者→患者への感染が起こるとしたら、先ほどの採血の手順において

新しい注射器を準備する→血を抜く→抜いた血を試験管などに移す→注射器と針を廃棄する

このアンダーライン部分で「うっかり自分の手に針を刺す」ことが必要で、まあその場合は当然その注射器は廃棄してまた新しいのを出します

うっかり自分の手に刺してしまった注射器をそのまま捨てずに患者に刺したとしたら感染は起こり得ますが 、そんなことHIVの有無以前に大問題ですよ。汚染された注射針を刺すとか。いくらなんでも医療者として非常識すぎます。

というわけで、まとめます。

HIVを持っていても、自分に刺した針をさらに患者に刺すという非常識なことを行なわない限り、通常の看護業務で患者にウイルスをうつすおそれはなく、仮にその事故が起きたとしても感染の確率は0.4%で、事故後速やかに薬を飲むことでこの確率を1/5下げることができる(0.08%)。

もちろん、針刺し以外にも感染の経路はあるでしょうが、少なくとも外科領域以外では、通常看護に支障がないと結論して良いでしょう。

■Ex. 「差別」って何だろう


ここで、弟デイブガードナーは埋葬されている

「ゼロリスクを求めるあまり、非合理な思考に陥ってしまう」こと、それから「本当に医療現場において医療者から患者へのHIV感染はリスクが小さい」こと。

前回述べきれなかったこの辺りの点について、自分なりにまとめてみました。

前編と合わせて、一人でも多くの人の役に立てば幸いです。

ところで、「差別」ってどういうことなんでしょう。

良い表現は何かないかなあと、色々考えてみたのですが、自分の中での現時点の考えはこれです。

「ものごとを評価する『モノサシ』の歪み」

そして、「その歪んだ『モノサシ』で、他人の人権を侵すこと」

要するに、こういうことなんじゃな� �かなあと。

モノサシが歪む原因は色々あると思います。

前編で強調したのは「無理解」でしたし、後編で強調したのは「非合理な判断」でした。

これらはどちらも、理性によって克服できるはずのものです。

完璧なモノサシというのは残念ながらどこにも存在しません。

それどころか、測られるべき尺度というのもはっきりと姿が見えないものですし、姿が見えないだけではなく文化や社会の変化によって常にその形を変えています。

だから、自分のモノサシが歪んでいるかどうか、適切に判断するのはとても難しいし、歪みを直すのも容易じゃない。

エラソーに語っている僕だって、いざそのモノサシを人と比べたら、きっと知らないところ、気づかないところで凄くいびつになっていると思います� �

一番危険なのは、自分のモノサシが正しいと思い込んでしまうことです。

これは思考停止で、そして自分の思想信条を他人に強いる行為です。

まずは自分のモノサシを信じ込むのをやめて、問題を理解しようと努め、そして合理的に判断するように心がける。

差別といったものをなくすには、こういったささやかで、しかしながら難しい努力を続けることが大切なんだと思います。

ここまでの長文、読んでくださりありがとうございました。

■ 参考リンク

HIV/AIDS先端医療開発センター
HIV や AIDSについて、基礎知識から解説してあります。

[HIV, HBV, or HCV transmission from infected health care workers to patients]
本文中で引用した論文です。Abstract(概要)のみですが、結果を把握するのには十分です。

針刺し事故の予防と対策(※PDF)
針刺し事故の対策について述べられた日本語の論文です。

厚生労働省:健康:結核・感染症に関する情報
B型肝炎ウイルスと保健医療従事者について、厚生労働省が提供する情報が読めます。
残念ながらHIVのことはここのページには載っていないようです。

HIV / エイズと働く世界(※PDF)
ILO(国際労働機関)が定めたHIV / AIDSと職場における行動規範です。
HIV / AIDS の患者の「働く権利」や、職場における感染予防など、国際的な規範が記されています。
付属資料にHIV / AIDS の基本知識などがまとめてあります。

■ 参考ブログ(随時追加していきます)

痛いニュース(ノ∀`):HIV感染の看護師「病院から退職を強要された」 病院「退職を求める意図はなかった」
そもそもの発端です。

つなごう医療 中日メディカルサイト | 看護師退職勧奨 『HIV 差別なくして』 -
中日新聞の記事です。
今回の事件について、看護師サイド・病院サイドの言葉がより詳細に報じられています。
ならびに、国内でのHIVに対する偏見が根強いことなどへの疑問提起もされています。

HIVキャリアを理由に看護師を解雇することは正当か? - NATROMの日記 -
今回のニュースに対する一部ネット上の反応について、いち早く書かれた批判の一つです。
様々な例を用いながら、簡潔に問題点をまとめています。
『HIV, HBV, or HCV〜』は、このブログで紹介されていたものです。


とりあえず、HIV抗体検査に行ったほうがいいと思う - キリンが逆立ちしたピアス -
HIVへの無理解や差別について、「HIV/AIDSはどこか遠くで起きている問題だという感覚があること」や「実際にリスクがあることを自覚し、現実に直面するのが怖いこと」が原因の根っこにあるのでは?という鋭い指摘です。
実際にHIV抗体検査を受けた際のエピソードも交えてあります。

Saomix elements通信 HIVキャリアへの退職強要を考える
『HIV, HBV, or HCV〜』の概要を紹介するとともに、ご自身の献血経験にも触れています。

日本人の民度 - 医療報道を斬る Doctors Blog 医師が発信するブログサイト -
「日本人は『リスク』を自分で評価できない」という話を、「民度」というやや挑発的なフレーズを用いて述べています。

ため息つくほど度し難い II - ちょっと呟いてみる -
当ブログのコメント欄でも議論になった「看護師がHIVを意図的に感染させる」という行為について、率直かつ鋭い指摘を書かれています。
この議論は自分のブログの中で巻き起こったものなので、いずれ改めて意見を述べる必要があるかと思っていたのですが、ほとんど代弁(さらに+α)して頂けた感じです。有り難うございます。

HIVに感染した看護師が病院側から退職勧告を受けた件 - 適当な日記 -
こちらは、専門家ではなく一般人の方が書かれたブログで、一般人の感覚としての「本当に安全なの?」等と言った素朴な疑問を述べていらっしゃいます。
一般の方が抱きやすい疑問・考えの代表的なものが、コンパクトにまとまっています。一般の方の考え方を知るという点て、逆に専門知識のある人にとって読む価値のある記事かもしれません。
また、コメント欄においてNATROMさんが疑問の一部に解答されていて、こちらも大変有意義な情報となっています。

差別感情と差別行動 - いま作ってます。 -
今回のHIV報道についての様々な反応について、それらを「レベルに分けて分類する」というアプローチから解釈を試みています。
理性を持った人間が「どのレベル」を目指すべきか、単にHIVの問題を超えて示唆に富む記事です。

HIVを知らない病院は、すぐ車椅子で流血事故を起こすような病院だそうだ - 法華狼の日記 -
今回の報道での、病院側における対応のまずさを念入りに検証しています。
NATROMさんも「HIVキャリアというだけで看護師を退職させる病院には私は受診したくありません」とおっしゃっていましたが、私も同感です。
HIVに対する知識もなく、平然と差別が行なわれる病院にはかかりたくありません。2chの反応とは別の意味で、看護師はこの病院を辞めて正解だったのかもしれません。

これも市民感覚かな - 新小児科医のつぶやき -
HIVに関する「市民感覚」がまだまだ非合理なものであるという現状について考察をされています。
「医療者としては地道に理性に訴えての啓蒙を続けるぐらいしか対策が思い浮かびません。今回の問題が5年、10年先には違った市民感覚になる様に努力を重ねる事が一番重要と考えます」とのこと、私も全くの同意見です。その思いから、一連の記事を書くに至りました。

HIV感染は退職をすすめる根拠になりません - 感染症診療の原則 -
感染症のプロフェッショナルの方です。
コンサルタント等もされている方だけあって、一文一文の切れ味が素晴らしいです。
短いエントリですが、非常に価値の高い文章です。

地獄へ道づれ - 男の魂に火をつけろ! -
歯に衣着せぬ痛快な筆致で、HIVキャリアに対する差別発言やTwitterでの悪質なデマについて批判しています。



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